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日曜(10/24)は、私たちが畑を借りている釜沼北集落の草刈り日ということで朝から作業に加わった。押しかけ修行に通っている長老たちの炭窯も、この集落にある。 高さ150センチほどの電気柵が集落全体をぐるっと囲む。伸びた草が金網に触れて電気がショートしてしまわないように、定期的な草刈りは欠かせない作業だ。柵のおかげでこの集落は、イノシシやシカやサルが田畑を荒らす害から免れている。サツマイモや大豆がちょうど実りのときの私たちの畑もまた。 Clerodendrum trichotomum クマツヅラ科クサギ属 (花の写真は、こちら) 柵の向こうは獣たちの世界。向こう側に人が入ることは、めったにない。集落に接したすぐ後ろが、いきなり「奥山」というわけだ。 昔は、そこは林床が明るく開けた広葉樹の森で、台所のかまどや風呂の焚き付け用の柴刈りに、競うように山に入っていたそうだ。「みんなが採りに行っからよ、枯れ枝1本探すのも容易じゃなかったヨ」と炭窯の長老が言っていた。炭焼き窯も山のあちこちに築かれていたそうだ。後ろの山は、そうやって薪を取り炭を焼き、さまざまに人間に利用されていた「里山」だった。 炭焼きがいちばん盛んだったのは戦後しばらくの頃だったと長老が言う。焼くはしから良い値で飛ぶように売れて、それは懐がぬくかったそうだ。「吉尾(隣村)のほうに炭の仲買いがいてよ、とにかく炭はあるだけ出してけれってぇ言ってよ、えっらい景気だったヨ」と長老が昔を懐かしむ。 けれどじきに「燃料革命」が到来し、炭の需要は冷えこんだ。それと前後するころには製紙会社がパルプ用にと広葉樹を買い求めにやってきたそうだ。拡大造林の時代ともちょうど重なって、里山の森はスギとヒノキに取って代わっていった。 千葉県の場合、たとえばイノシシは、食糧難の時代に過剰に狩られて1970年頃に絶滅に到り、その後、80年以降に狩猟者が野に放ったイノシシ(またはイノブタ)が増えたという説が有力だ。一説には、イノシシは高い狩猟圧のもとでも個体数が毎年2倍になるというから、いまのような低い狩猟圧のもとでは想像するだけでもオソロシイ。 ○参考:千葉の哺乳類-イノシシ(「千葉県立中央博物館」サイト内) 電気柵で守られなければ暮らしが保てない。それはケモノの数が増え過ぎたからにほかならない。近年これだけ里にイノシシが出て来るようになったのは、少なくともこのあたりでは、植林地が拡大して奥山に食べ物が少なくなったせいではない。拡大造林の頃とは時代がずれている。雑木の森はそれなりにまだあるし、今年はドングリの生りも上々だ。 なにより里では、どこもかしこも竹やぶが増えた。里山のスギ林や雑木林は竹に浸食されて、一歩も中に入れないほどの密生したやぶと化しつつある。耕作放棄地にはクズがものすごい勢いではびこって、セイタカアワダチソウやヨシとともに、ひどいやぶを形作っている。 タケノコもクズの根もイノシシの大好物だ。私たちが以前復田した山の上の田んぼはイノシシの害で耕作を諦めた。いまそこは田の中にまで竹が侵入し、クズが茂る畦道は路肩をイノシシにごっそりと削り掘られて、じきに軽トラも通れなくなりそうなありさまになっている。 野生生物の多くは起きている時間の大半をエサ探しで費やすものだ。けれど里は食べ物の宝庫のやぶだらけで、田畑には栄養たっぷりカロリー満点のごちそうが据え膳上げ膳で植わっている。しかもそれが、けものたちのねぐらである奥山のすぐ目と鼻の先にあるとしたら...? 里山は人間の世界とけものの世界を隔てる緩衝帯でもあった。棲み分けは、けものの数の調整弁としても機能していた。その里山が衰えて、いまは人里が豊かなえさ場となってけものたちを肥え太らせている。 小さなくぼみに溜まった土埃の上にすら植物は進出して、やがて身は朽ちて土となり、さらに多種多様な植物をはびこらせてゆく。 環境に最大限に適応しながら、ただ粛々と勢力圏を広げていく姿を見ていると、植物と菌類こそがこの地球の支配者だと思えてくる。だいいちヤツらは何を考えているかわからない。話も通じない(あたりまえか...笑)。自然は人間に無関心だ。 どの生き物も自然の中でせめぎ合いながら生きている。せめぎ合いにまさったものが、生きのびて遺伝子を残して行く。欲求に忠実に粛々と、ひたすら自己保存のために生きる。そうやってひとつひとつの命は限りなく利己的でいて、しかしそれらが寄り集まった自然は、絶妙な調和を持った生態系を形作っている。なんて見事だろう。 人間は、自然の中では鬼っ子のような存在だ。人間の、自然に働きかけて自然を改変していく力は、あまりにも強大になりすぎた。本能に任せて生きさえすれば万事うまくいくような能力は、もう人間にはない。けれど人間もまた、直接的間接的にこの自然に依存して生きている。ならば私たちは自然を、そして自分たちを、本能のかわりに理性でコントロールせねばならない。私たち自身が生きのびるために。そして強大な力を持ってしまった者の責務として。 けものの数を管理調整していくことは、人間が引き受けるべき責務だ。人為の帰結として数を増えさせ過ぎたものならば、人為でコントロールしなくてはならない。それが、生態系をいとも簡単に破壊できるほどの力を持ってしまった者としての、落とし前のつけかたではないかと思う。 「神に選ばれた特別な存在として他の生き物を支配する役目がある」とか、そういうことじゃない。そのような世界観にしても、「可哀想だ。どんな命も奪ってはならない」という価値観にしても、それは結局、人間中心主義じゃないかと思えてならない。 冷徹に落とし前をつけることで、この生態系の調和の片隅に居場所を得る。自然界の鬼っ子としての、それがせいいっぱい謙虚な姿ではないかと思う。 この秋、全国的にクマ出没の事例が多発している。結果として射殺処分に到ったケースも。 「可哀想だ」という批判は少なくないだろうし、なかには「殺すな。クマのためにドングリを集めて森へ届けよう」という活動を展開する市民団体もある。(私はその活動には反対の立場です) それらをめぐって、とても共感をもって読んだブログ記事がある。 ぜひ読んでみてください。 ○野生のクマをなんとか助けたいと考える皆さんへ - blog「紺色のひと」 記事中に紹介されているリンク先は、どれもとても参考になる。 特に下記のページは必読。2番目のリンク先を読むと、安易にただ射殺すれば善しとしているのではないことがわかると思う。 ○保科英人(2004) 野生グマに対する餌付け行為としてのドングリ散布の是非について~保全生物学的観点から~(pdf) ○知床財団-お騒がせの斜里市街地ヒグマ出没 日本の山や森や農村が実際にいまどういう状態で、どんな問題が起きているのか(地域や場所によってもさまざまに違うだろうけれど)、とにかくまず、具体的な実態を知ってほしい。「可哀想」などと感情にかられて動く前に、少なくともそれは知っておくべきことではないだろうか。 写真:さとみ
by hyakuishou
| 2010-10-28 00:00
| 農・食・環境
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